身貧しくとも心豊かに

語りたくない過去(思い出すのが辛い、誰にもしゃべったことのない十代)

 外で飲む機会は殆どないのですが、たまに拉致(拉致という単語はこういうことに使うと思います。北朝鮮へは誘拐)、拉致されてスナックなんかへつれていかれますが、カラオケはやりません。すごい音痴なので、私が唄いだすと、トイレに行く者、雑談を始める者、うたた寝する者、マイクを取り上げようと身構える者等々が続出。囃し立て、音痴を真似るような意地悪もいるのです。それでお開きになったりもします。だから、かっての職場で大勢で二次会に行ったときなど、マイクが回ってきたときは次の者に渡していましたが、中には「みんなが唄っているのに何故お前は唄わないのか」などとねじりこんでくるような人もいるのです。脂汗を流しながらそれを聞き堪えたり、席をはずしたりしていました。カラオケは嫌いです。でも酒には弱いのですごく滅茶苦茶に酔って、自分のことがわからなくなってしまうことが多々あります。するとつい「ミヨちゃん」を唄ってしまいます。「明日がある」も唄っていたのですが、あまりにもポピュラーになったのでやりません(酔っててもこんなことにはこだわるの)。                                                                     15歳中学を卒業すると、夜間高校に進学し社会に出ました。父が定職を持たず、家計が持たないので稼ぎに出たのですが、言うに言えない淋しいものでした。と言いますのも私は中学ではトップクラスの成績だったのです(知人が多いので嘘は書けない)。中学校は学年各4クラス、200人余りの生徒でしたが、中間、期末試験は5位以内、10位から落ちたことは記憶にありません。試験は存在をアピールできる絶好の機会でした。私は小学校を北海道で過ごしたので発音や使う単語が違います。持っていたムードも他の子と違っていたでしょう。発音を真似されたりの嫌がらせもありましたが、それが魅力にもなるのでしょうか、特異な存在のようで居心地の良い中学生活でした。     2年生の時です。隣りの席のお人形さんのように整なった丸顔の女の子が、小さな声でしきりに話かけてきます。反対側の色の白いスリム長身の女の子が教科書や参考書の内容を私に確認します。私の歓心を得るために二人が争っていることを同級生が教えてくれましが、当人の私は知りませんでした。ついでに3年生の時の反対のケース。教室の正面、教壇から二列目の席にものすごく賑やかな女の子が座りました。おしゃべりはもちろん、授業中は先生の話に大声で相槌を打つ、はいはい手をあげて発言する、まるで一人で先生を相手にしているような感じでした。予習復習をきっちりやっている自信の表れではありますが、はた迷惑はこの上ない。隣席の私なんかうるさくて授業になりません。女の子に臆する私ですが勇気を出して、「静かに授業を受ける」ように注意しました。すると、目をむいてまるで機関銃のように口早に反撃されました。何を言われたものか今もって思いだせませんがびっくりしました。                                                               この頃、父は失業して働かなかったりで、収入が少なかった。父には些細なこと、ちょっとした失敗でよくぶん殴られました。危険を感じたこともあります。玄関前で激怒を受けているとき、近所の奥さんが身を挺して中に入ってくれたことも幾度かあります。私の服は知人からのもらいもので粗末でしたし、下駄ばきで登校、体育の時間は裸足だった、教科書はもらい物で塾どころか欲しい参考書も買ってくれないし、侮辱感、孤独感を強く持っていました。                                                                でも、自宅を行きかいする友人は数人いました。一緒に勉強をしたいと未知の同学年が訪ねてきたこともあるので、同級生には好感を持たれていたようです。その男はその思い出を(忘れないこととして)今も話しています。また、「まったなし」、「何時間考えても良い」ことをルールに半日も将棋を指しに来る友人もいました(その男の家の位置、家族も知らなかった。卒業後大阪へ就職。当時は進学率50%くらいだった)。                                                                            「専務の息子」と呼ばれる同級生の自宅はよく訪ねた。専務の息子は、進学雑誌を数種類、参考書を山のように購入していた。うらやましそうな表情が私に出ていたのだろうか、訪問を喜んでか、沢山の参考書をくれた。上記の成績を維持できた大きな要因になった(40歳の時、私は神戸に単身赴任した。自宅との交通に新居浜港から夜間フェリーをよく利用しましたが、父の後を継いだ専務の息子によく会った。私は大広間に雑魚寝、彼は個室ベッドでありました)。                                                                             その頃の思い出すのが辛いこと二つ。隣りの中学校(西中)の発表会に出演し、発表が終わり退場のため舞台で背を観客にしたとき、大きな笑いが起こりました。私の尻の大きな布当て(ほころびの繕い)が笑われたのではないかと思います(勘違い、ヒガミかもしれません)。            もう一つの辛い思い出は、3年生の冬休み、友人に誘われて近所の製材所にアルバイトに行ったことです。参考書を買うお金、お小遣いが欲しくての初めての労働で疲れて帰った私に賑やかに、小学3年の弟と入学前の妹が「バイト、バイト、アルバイト、僕は・・・・」と、当時の流行歌を囃し立てるように合唱するのです。父が教えたのもので、幼い弟妹に罪はありません。情けなかったです(父の言動には憎しみを抱いているものが多々あります)。そのアルバイトの賃金は踏み倒されました(経営者は夜逃げ同様、どこかに行ってしまいました)。誘ってくれ一緒に働いたその友人とは今も音信があり(事業に成功し、この件を社会への門出の失敗と語り)、高級な寿司屋などにつれて行ってくれるのですが、私に負い目を感じているのでしょう。決してその支払いをさせてくれません。                                                                  3学期が始まり入試の補修授業も本格的になりました。 進学をあきらめている私も受講しました。大多数が自分より成績の悪い者の中、授業を受けるのは淋しいけれどデモンストレーションでもありました。そんな折、進路指導担当の先生から、「証券会社から事務員採用の話が来ている、これなら軽労働だから就職したらいい。そして、定時制高校で勉強したらいい」との話を受けました。それで面談に行き、後日採用の連絡と共に勤務時間、給料などの通知がありました。時間は夕方5時まで、給料は5000円の高給でした。ところが、実習と称して授業中会社に呼び出されます。(私が中学校当局ならそんなことは許さないのですが)その都度、中学校の近所にあるその事務所に行って簡単な事務や仕事をさせられるのです。また、顧客に文書の配達をさせられました。                                                                 入学願書(全日制)提出期限の直前のことです。近所の親しく交際していた、全身に刺青を入れた金融業を営んでいる男の奥さんがやってきて私の父母に、「息子さんに受験させてやって」と受験料の現金をおきました。父母は、合格しても学校へやれないからとお断りしても「入学したら何とかなるんじゃない」と熱心に勧められましたが、父母は固辞しました。                                  証券会社の方はそのうち呼び出しが減っていき、なくなり(詳しい事情は忘れました。事務所がなくなったのか)採用は立ち消えになりました。この頃からだんだん世の中や大人が信用できなくなりました。                                           余談ですが、それから12年後に私は税務職員になっていで伊予三島税務署に着任しました。ベテランの徴収担当者が「〇〇にやられた。あいつに入られたら負けだ」と言っていたのを耳にしましたが、それは滞納物件を差し押さえようとしたところ、先にこの刺青をした貸金業者に取られていたということでした。とんだ所で人情のある心優しい人のお名前を懐かしく聞きました。あの時のお礼を言い、公務員になった姿を見てもらいたかったのですが、仕事柄さすがに訪ねることはできませんでした。                                              成績優良賞、精勤賞を受賞して中学校を卒業しましたが、前途不安で嬉しさはありません。稼がねばなりませんが、もうこの時期にいい就職口はありません。職業安定所へ行ったのですが、歳若いから馬鹿にしたのでしょう。窓口は不親切なんてものでない、実に不愉快な目にあわされ心に傷がつきました。                                                                    でも、父に皮肉や嫌味を言われますから、町に出てみました。町で私の行く所は、今もそうですが書店(本屋)しかありません。市内に3軒ある書店を回り、最後に寄った店に「店員募集」の張り紙がありました。                                       昭和34年4月4日が私の社会人デビューになります。夜間高校に通うから夕方5時までの勤務を受け入れてくれたので、この店で働くことにしました。

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